…2 からの続きです。
今度は、黄色のコンクリートの壁です。病院のスタッフは、紙クリップに至るまで、私が危険なものを持っていないか、所持品検査をします。私は疲れていて、病院の人たちが正しいのかもしれない、私はクレイジーなだけなのかもしれないと思います。ある意味、診断名をきいてほっとします。私はもう、自分に責任を持つ必要はない。サポートもなく、わずかなお金で3人の子どもを育てることは過酷です。私は疲れ果てています。だから、自分に責任を持たないでもよいというのも、悪くはないのです。
でも、そうして、病院のスタッフは私に障碍年金を受けることを提案します。子どもの養育権をあきらめたらどうかとも。病気が重いから、私には子どもの面倒をみるのは無理だと言います。彼らはわかっていると思っています。
そのとき、怒りに小さな火がつき、「あの人たちは一体何様なの?」と思います。しかし、火花は長くは続きません。私は、病院のスタッフと争うには疲れすぎています。長い間、重いものを引きずってきていました。病院のスタッフは、自分たちにはわかっていると思っていて、そのことに全く疑いを持たず、私が自分について知っていることに何か意味があるかもしれないとは、みじんにも思いません。
すぐに私は、病院のスタッフに言われたとおりにするようになります。それで、うまくいっているかのようです。しばらくの間、私は、元の生活に戻り、“対処”しています。そして、また、“それ”がやってきます。
再入院です。今度は、私の怒りを呼びさますことが起きます。入院してまもなく、弁護士からの電話で、別れた夫が、子どもの養育権を要求していると告げられます。養育費を支払う義務から逃れるためです。ナースたちは、しかし、今はそのことを心配すべきではないと言います。私は入院が必要だから、ここにいるのだと。私が興奮状態でいる間、患者の一人が私のそばにいてくれ、私が話を聞ける状態のときに、彼女も、子どもをとられてしまうかもしれないと言われたのだと言います。彼女は怒っていて、私に、自分にとって何が大切かを考えるようにとチャレンジを投げかけます。私にとって大切なことは、子どもへの愛情、子どもとのつながり、子どもたちは父親と暮らせば感情的な虐待を受けることになるだろうということです。
そのとき彼女に言われたことと、病院のスタッフに言われたことの間に、違い(不協和)があることを見出します。大きなものではありません。ほんの小さなものです。それでも、なにがしかのものです。彼女は、私のような患者であるにもかかわらず、彼女の言ったことに私は納得がいきます。病院のスタッフが言うことには、全く意味をなしていないことがあります。彼らは医者や専門家であるのに。そして、その不協和に気づいたことをきっかけに、私は物事を違ったふうに見始めるようになります。
… 4 に続きます。
文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理