精神病院の入り口の鍵が閉められる音を背後に聞き、私は屈してしまったのだと知ります。「あなたは病気だから、入院が必要なのです。私たちがあなたの助けになりますからね。」入院して5分もたたないうちに、私は、すでに精神病患者になっています。それまで私は自分に起きていることを、“尋常でない出来事に対する普通の反応”だと受け止めていました。でもその受け止め方は、『私は病気なのだ。向こうには科学が味方についている』と知ることで、粉々に打ち砕かれます。何かに反応することは“症状”であり、追い詰められたような感覚は“自殺念慮”となり、思い出せないことがあると、それは“解離”であると意味づけられます。
自分をどのように理解し、他人をどのように解釈し、この世の中で私はどのように振舞うべきかを告げるメッセージに対し、私はずっと、それから逃げるようにしてきました。はじめのうち、それらのメッセージはすべて、私に恥と、自分が異物であるような感覚を植えつけるものでした。「それはあなたが悪いのよ。自分のせいでしょ。あなたは本当にダメね。」「それはそうと、どこが悪いの?あなたの問題は何なの?」
物事が誰のせいで起きたのかを決められるのは、自分以外の誰かだと思うようになりました。そして、なぜか、それはいつも私のせいなのです。また、私が受けた痛みに対して、力を持つ人が「それはそんなに痛いはずはない」というように、私が痛みをどう感じるべきかを決めるのだと思うようになりました。これらの外から送られてくるメッセージが積み重なって、それが真実となり、私と外界を隔てる皮膚となります。そして、私は、自分は異物だと思うようになります。
私は、自分がしたことへの反応として、恥を感じるのではなく、私の存在自体を非難するものとして、恥を感じます。恥ずかしいと感じるというより、私の存在自体が恥に満ちていると感じるのです。私の身体は悪であり、私の存在が悪なのです。そのメッセージは、耳の中に埋め込まれ、取り除くことの出来ないメガホンから聞こえてきます。そのストーリーに文脈はありません。恥がすべてを覆っています。人はみな、どのように行動し、どう振る舞い、何を言うべきかを、いつもわかっているようです。私は、人と違っていて、異物であるかのように感じます。そして、“普通”の人はどのように振舞うのかを知るためだけに、たえず人を観察しています。
10代になって、閉じ込めていた恥の感覚が外へとこぼれ始めます。それまでは、あまり意識することなく、なんとか切り抜けていました。ですが、思春期は、感情に動かされるときです。私は自分が空を飛べると思い、自分を信じています。そして空が飛べるかどうか試してみます。何日も眠りません。他の人の目には映らないものが、私には見え始めます。そして、身体が震え、言葉が出てこなくなり、コミュニケーションは、ますます通じにくくなってきています。私は、ある雪の日に、「ここに私は本当に存在しているのだろうか?でも、多分、存在していることになっているはずだ」と独り言を言いながら、雪の中を裸足で輪を描いて歩いています。母がそれを見つけ、怖くなり、私を怒るべきか、無視すべきかわからなくなります。しかし、ついに、信じられない行動に出て、精神科医に連絡します。その精神科医は、私は危険な状態だと母に告げます。気がつくと私は精神病院の前で車から下ろされています。母はそのまま車で走り去り、娘を精神病院に連れて行ったことを誰かに目撃されたかもしれないと心配します。私たちの家族は誰も、精神科医に会ったことすらなかったのです。人は自力で生きていくべきものだと思っています。
それは、60年代後半から70年代の初めにかけてのことです。クレイジー(狂っている)であることが“格好いい”時代ではありません。私が住んでいたのは、アングロサクソン系白人プロテスタントが大多数を占める、ニューイングランドの小さな町です。そこでは誰もが同じような服装をして、週末にはスキーに行き、夏は別荘で過ごしています。もし何らかの問題を抱えているとしても、それを他人に話すことはないでしょう。もっとも、私の友達のお姉さんが16歳で妊娠し、子どもを産むためにフロリダに行かされたときのことが思い出されます。学校に戻ってきたとき、そのお姉さんは噂話の対象になっていて、誰も彼女に話しかける人はいませんでした。
私は、精神病院の門をくぐり、おそるおそる中に入っていきます。セメントの壁は醜く薄い緑色をしています。私は、どうすべきかわかりません。精神科医が診察し、しばらくの間、私を観察すると言います。ナースがときおり来ては覗いていく、小さな窓のついた二人部屋をあてがわれます。私は統合失調症というものであると医者は言います。長い間、ここにいることになるだろうという感触を私は得ています。そして、医者が語る“ストーリー”を素早く学びます。私に起きていたことはすべて、その病気の一部である。こういうことは多分、繰り返し起きるだろう。でも、薬を飲んで、たまに入院することで、病気を管理することはできる。退院後は、私と同じような人が住むグループホームで暮らすことになるだろう。私と同じような人のなかには、薬の調整のために入院している相部屋の患者も含まれます。私たちの部屋のドアが閉められると、相部屋の患者は、“もしかして必要なときのために”隠してある薬を私に見せます。そして、薬を“頬に隠す”やり方を教えてくれます。
薬のせいで舌は、はれぼったくなり、私はタバコを吸うために灰皿の上に身をかがめるようにしています。腕を灰皿まで持っていくのが、とても億劫だからです。大晦日の夜、私たち入院患者は街へ外出に連れ出されます。私たちは羊の群れで、ナースが羊飼いです。薬のせいで足が鉛のように重く、片足を手で持ち上げて、もう一方の足の前におろし、「ちゃんとしろ、足。動け。」と声に出して言います。それを聞いて、相部屋の患者が、声を出していはいけないと、私に合図を送ります。病棟では、スタッフ対患者という構図があり、それぞれが、パワーを持っています。私は、もしかして必要なときのために、“鋭利なもの”や薬を隠すことを覚えたし、スタッフは一日に何度も、「あなたは病気だから入院しているのです。ドクターの指示に従いなさい」と言います。
ある日私は、革命的な行動をとりました。これを飲めば、ベルトをつくる作業療法に耐えられるかもしれないと、相部屋の患者にもらったLSD(幻覚剤)を飲んでみます。LSDが効きはじめる直前に、私は、脳波検査(それがなんだかわからないけど)を受けにいくようにと指示されます。“一般”病棟へ続く長い地下道を歩かされ、そこに着くと、技師たちが電極のテープを私の頭に巻きつけます。「これは現実のことだろうか?」「私は宇宙に来ていて、あの技師は宇宙人だ」と思います。検査がすべて終わったころには、LSDの効き目は切れています。精神科医に結果を聞きに行くと、彼は、「こんなおかしな現象をはじめて見た。全く脳波が出ていない」と言います。私は、LSDのことがばれたかと思い、ひどくうろたえます。医者は、ただ冗談で、そう言ったのです!
電気療法を数回施され、ソラジン(精神薬)を多量に投薬されたのち、私は、良くも悪くも、両親のもとに帰されます。グループホームの案は立ち消えになっています。私は、入院経験について誰にも話さないと誓います。(家族の秘密にご加護を)
… 2 に続きます。
文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理