シェリー・ミードIPSワークショップ: ストーリーが出来るまで【文字起こし】

【この文章の元になった講演の動画は → こちらのページで視聴できます。本文はワークショップの文字おこしの翻訳に若干の修正を加えたものです。】

 

自分についてのストーリーがどのように作られるのかを図式化してみましょう。

 

1.自分に問題があるというストーリーが出来る過程

 

まず、あなたが「あなたは変わっている。出来損ないだ。頭がおかしい。それは自分のせいでしょ。それはあなたが悪いからだ。」というメッセージを、いろいろな文脈で、いろんなふうに、いろんな関係のなかで、長年にわたって受け取ってきたとしましょう。それと同時に、あなたは周りに合わせようとし、どのように振舞うべきかを学びます。人から言われたメッセージを自分でも信じ始めるとともに、トラブルを起こさないために、周りに溶け込もうとするのです。

 

そうして、このような奇妙な在り方が、あまり健康的ではないふうに積み重なっていきます。周囲にあわせた振舞いをしながら、自分はおかしな人間だという考えを信じ込んでいます。そして、「あなたのことを気に入っているよ。」というような人に出会うのですが、あなたは内心で「この人バカじゃないの。私のことなんて何も知らないくせに。私は頭がおかしくて、出来損ないで、最低な人間なのに。」と思います。このようなせめぎあいが積み重なり、人々とのつながりを切ります。関係が始まる前から、いろいろな仕方で関係を断つようになります。なぜなら、いかなる理由にせよ、自分のストーリーの全てを語ることが出来ないからです。そうして周りに合わせて振舞うことを覚えます。

 

これは私の話で、たぶん、この話を聞いたことがある人も多いでしょう。でも、気に入っているのでお話します。ずいぶん前に、ソーシャルワークの学校に通っていたころ、昼間は学生で、夜というか週末は慢性精神病患者をしていました。それは穏やかならぬ状況でした。クラスメイトの多くに”援助”を受けいて、彼らは守秘義務があって、そのことを秘密にしていました。もちろん私もその話はしてほしくはなかったのですが。大変な思いをしながらも、クラスに出席して発言し、自分の考えを話し、自信を感じたりしました。ですがクラスの外に出ると、秘密にしている語りが頭のなかでわき起こり、「自分は何もわかっていやしない。クラスメイトはまともな人たちだけど、私は頭がおかしくて、週末には入院をしているんだよ。ソーシャルワークの学校で一体何をしているつもりなの。」というような語りです。それで二重の生活をしているような気がし始めます。バッドマンと、バッドマンがバッドマンでないときは何だっけ?そうブルース。もっともバットマンの気構えを私は持ち合わせてはいなかったですが。

 

ある年の感謝祭のときに入院していて、そのとき二度目に、子どもたちの養育権を奪われたと聞かされました。単に入院しているからという理由で。今は仕事仲間の、そのときはナースだった人が私のことを良く知っていて、私が学校で苦労していることも知っていました。彼女は私の首根っこをつかんで、「シェリー、あなたはソーシャルワーカーになるの、それとも、慢性精神病患者なるの?10分で決められるでしょ。」と言いました。文字通り、彼女はそう言ったのです。正直なところ、そのときまで私は自分に選択があるとは知りませんでした。違った生き方をする可能性があるのだということを知りませんでした。
そうして、このようなプレッシャーが積み重なっていきます。このような内的なプロセスが、どのような形で現れるにせよ、それにラベルをつけられ、それについて語ることはありません。したがって新たな意味づけがなされることもなく、ただ積み重なっていきます。そしてやがて何が自分の問題なのかと思い始め、そのために助けを求めます。

 

2.専門的援助が必要な問題を抱えた人であるというストーリーができる過程


そうして、あなたは自分は頭がおかしいのだと思い、その問題のために助けを求めに行きます。従来のシステムでは、助けを求めたとき、まずはじめに診断するための評価を受けます。みなさんもそうでしたか?それが初めて会うときの会話だというのは興味深いことです。私は、はじめの会話がその後の会話の道筋を決めると信じています。そのような会話が一度はじまってしまうと、そこから抜け出すことは出来ません。そこに閉じ込められます。自分の問題について助けを求めてきたときのはじめの会話で診断名がつけられます。「そうだったのか!やっと理解できた。」ここで人々は、「よかった。私はxxという病気なのだ。問題のわけがわかった。」と思います。そして、とてもたやすく、魅了されたかのようにその道に入っていきます。症状にしたがって治療が決められます。そうして、今週の診断名どおりに生きるようになります。「診断名はなんだっけ?あ、それできるよ。統合失調症ね、それもまかせて。」というように。そうしてまもなく自分の人生、感情、経験、ものごとの意味づけの仕方、人との関わり方のすべてを症状とみなすようになります。自分の問題の一部として意味づけます。それは恐ろしいことです。

 

この会話に入り込んでしまうと診断名で自分を定義し、私の症状をいかに管理するかが、治療というか援助に関する会話になります。私は症状の詰め合わせが歩いているようなもので、私に出来ることはせいぜい症状を管理することくらいです。「症状をどう管理してますか?」というのは変な質問です。他ではこういうことは聞かれません。美容院で「あなたは症状をどう管理してますか?」と聞かれるでしょうか。考えてみてください。ですが、これが当たり前になっています。そういうふうに話すようになります。

 

そうして、圧力が高まり、激しい感情が起こり始めると、援助者からその感情は常軌を逸しているとラベルを貼られます。そして「クライシスだと感じたら連絡してください。手に負えないときは電話してください。」といわれます。それで私は「手に負えない!」と言います。そうすると、「薬を飲みなさい。」「入院しなさい。」「安全のための契約をしましょう。」ということになります。そうして安全の責任問題へと行き着きます。つまり、あなたは症状の歩く詰め合わせで、それらを管理し、常にコントロールを失う危険性とともにあり、クライシスがいつ来るか、戦争に備えてのプランを立てるようになります。

 

ピアサポートを始めて間もないころのことですが、とてもショックを受けたことがあります。友人が毎年8月になると、入院して電気ショック治療を受けるのだというのです。それをプランにしていました。病院とデートの約束をするみたいに。今は保険会社がそうはさせないでしょうけれど。彼女は文字通りプランを作っていたのです。彼女の頭の中では、自分は精神的なクライシスに陥るのでショック療法が必要であると考え、そのようなプランを立てていたわけです。激しい感情を症状だと思うようになっていたからです。私は違ったふうにできるはずだと思いました。私たちは治療を目的にした組織ではないし、そういう権威、関係性ではありません。違ったやり方をし始めています。ですが、ピアサポートが広まるにつれて、そこにもひび割れを見つけ始めました。

 

3.ピアサポートでも病気のストーリーに逆戻りする過程


さて、今度は助けを求めて、ピアサポートのプログラムにやってきたとします。そこではお互いを診断評価をするのではなく、お互いのことを知り合います。人生の全体について、ストーリーを語り合い、たぶん診断名も教えあうでしょう。私たちはその言葉で話すようになっているので。いい感じになります。ですが、私たちのどちらかが、おかしな行動をし始めると一変します。誰かが困難な状況に陥って、私たちを怖がらせると、突如、診断評価モードに入ってしまいます。そうして、「ねえねえ、スティーブンの行動、最近おかしいよね。ケアマネジャーに連絡すべきだろうか?」こういう会話がなされます。誰かの居心地が悪くなると、たいてい、こうなります。それが私には気がかりです。というのは、誰もが元気でというか、”症状”の管理が出来ている間はよいのですが、物事が混乱しはじめると、自分たちにされたような行動をし始めます。それが気がかりです。私にはそれは助けになるとは思えないからです。それが私たちのやりたいことではないと思います。ピアが運営するクライシス代替プログラムをしていて、それは私たちが望むやり方ではないことは明らかでした。

 

それはそうと、このようなダンスがはじまって、「もし間違ったことを言ったらどうしよう」と心配し、それでこの質問が出てきます。「身の安全は大丈夫?」「安全の契約にサインしますか?」このような安全の責任をめぐる質問をして、パワーの駆け引きをし始め、しないようにしていた医学的な分析をし始めます。そうして、これまで築いてきたピアの関係性はもはや、対等な関係ではなくなります。スタッフとメンバー、支援者と利用者、昔と全く同じ話です。お互いに助けるのではなく、誰かが病気か病気じゃないかという思い込みが始まります。
このパワーの駆け引きをしっかりと意識していることが大事です。どうすれば違った会話に立ち戻ることができるでしょうか。

 

4.相互に責任を担う関係性のストーリーが出来る過程


助けを求めて、ピアサポートにやってきます。同じプロセスです。お互いの話を聴き、お互いのことを知り、あなたがつらいときに一緒に恐れに向き合い、お互いにこういうようなことを伝え合います。「あなたがこぶしで壁を叩いているのを見ると、とっても怖くなります。あなたと一緒に居ることはできるけれど、手の骨が折れるんじゃないかと思うと、その場に集中して居ることが難しいんです。」こういう会話をお互いにすることができます。そうして、一緒に恐れと向き合います。お互いのことを診断評価するのではなく。私たちは助けに関する責任を外部の専門家たちにゆだねるのではなく、自分たちの関係のなかにおいておきます。

 

このように一緒に困難に向き合い、交渉し、パワーについて語り、衝突と安心・安全について語ります。そして、どちらもが会話にとどまっていることができるよう、どうしたら安心できる関係をつくれるだろうかを話し合います。どちらもが力を注ぐ関係であるために、お互いにどうすることができるだろうかを話します。

 

これは私の理論です。同意すかどうかは自由です。もし、大雑把な意味で、精神の病というものがあるとしたら、これはつながりの断絶に関することだと信じています。よい表現がないのでこういう言い方をしますが、現実から離れていて、かつ、つながりを保つことは出来ないと思います。なので人と人とのつながりについて考えたいと思います。交渉、パワーの駆け引き、より深い関わりの在り方であること、それらが私たちの取り組みの核になることです。