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こころの痛みの言葉としての自殺
- 自殺は感情ではない。
- 自殺は常に一つの選択肢である。
- 死にたいと思うことが癖・依存になっている。
- ありのままに感じることから自分を遠ざける。
- 診断評価の会話をしていると:
- 相互的な関係ではなくなる。
- いたみについて語ることが出来ない。
- 新たな対応を見出すことが出来ない。
私は安全とリスクについて、リスクの共有という見方をしたいと考えてきました。自殺の言葉を使うことで、それが精神医療の文化と混ざり合って、死にたいという気持ちについての語りがおろそかにされているようです。誰かが死にたいと口にすると、人々は反応して、即座に、どうすべきかという話になりがちです。自殺というのは感情ではありません。これは行為なわけです。私たちは、激しい痛み、困難な感情を自殺の言葉で語るようになっています。それで診断評価へと導かれます。ピアでさえもです。クライシスの民間対応プログラムの活動をしていると、そういう場面によく出くわします。「病院に連絡しようか?」「かなり危険な状態じゃない?」という診断評価モードに入ってしまいます。もしリスクを共有すること、相互の責任ということに、私たちが取り組まなければ、何かあったときの責任をだれがとるのかという、責任問題への対応に流されて、従来の診断評価のやり方に戻ってしまうだろうと心配しています。そこで行き詰まってしまうでしょう。
死にたいという思いは、私たちの多くにとって、反応というか条件反射のようになっているようです。みなさんはどうですか?私はかなり若いときから、こころの痛みと死にたいという思いが直接的に結びついていました。その当時は、こころの痛み、混乱、ひどい出来事から、すぐにそれを自殺という形で行動に移す可能性を考えました。たぶんみなさんの多くもそうだろうと思うのですが、そうしていると、とても困難な感情がおきると、その感情を感じるのではなく、即座に死ぬことを考え始めるようになりました。みなさんはどうすか?そういう経験がありますか?
私が治療関係の中で得たことの一つですが、ピアではなく、従来の治療関係にある人から、「自殺は常に選択の一つだから、あなたが自殺するかどうか、私にはそれをコントロールすることはできない。」と言われました。それで、コントロールしようとパワーを行使する関係から離れ、違った言葉で話すことを学びました。
私にとっては、死にたいという思いを口にすることは、ありのままの自分で居ることから、逃れることでした。これは、困難なときを経験した人、あらゆる種類の暴力を経験した人にとって、珍しいことではありません。でも、そうすることで、ありのままの自分で居ることからどんどん遠ざかり、気分が良いか、死にたいと思っているか、白黒、そのどちらかでしかないというふうになっていました。今は、もう、そういうことはありませんが。
死にたいと思うことについて、それを依存あるいは癖と考えて、ピア同士でその話をしはじめたらどうなるでしょう。電話相談をしているプログラムで、実際に、こういう会話を始めました。そこでは違った問いかけを人々にしています。
診断評価の会話に入ってしまうと、どれほどピアであったとしても、そこで相互的な関係は終わってしまいます。交渉はなくなります。こころの痛みについての語りは閉じられます。違った対応に開かれることはありません。なぜなら、その時点でできることは、誰かを入院させるか、させないかだけだからです。
関係性に焦点をあてた、違った会話を積み重ねる
- 自殺を考えることが、自動的な反応のようになって、どのくらいになるのかを聞く。
- 誰かが死にたいとあなたに言うとき、その人はあなたにどうしてほしいのかを聞く。
- 診断評価に陥ると関係はどうなるかについて話し合う。
- あなたが感じていること、必要としていることを伝える。自分の荷物は自分で背負いましょう!
自分も相手も大切です。
リスクと危険性についてどう取り扱うのかをまずはじめに話し合っておくことが大切です。実際にそうなる前に、もし、どちらか一方が「もうだめだ。コントロールがきかない。死にたい。」と言ったら、言われたほうはどんな気持ちになるだろうかを話し、どんなふうに対応するかを話し合っておきます。精神科医が患者さんと話をするとき、はじめにこういう会話をしていたらどうなると思いますか?あらかじめ、どんなふうに対応するかを一緒に考えることができるでしょう。
自殺の言葉を反応として使い始め、それがパターンになってどのくらいになるのかを振り返ることも興味深いと思います。そのせいで、こころの痛みについて語ることや、どんな状況におかれているのかを語ることから、どれほどかけ離れてしまっていたのかを一緒に振り返ってみることです。
誰かが死にたいという思いを口にしたとき、あなたにどうしてほしいのかを話し合うことも、あらかじめしておくと良いことの一つです。何年も前のことですが、私は、暴力を受けた女性のプロジェクトで知り合った女性から、「あなたがそう口にしたとき、私にどう対応してほしいの?」と問われました。彼女は、私より、もっとリスクをとる人で、そこから交渉が始まりました。私は彼女に自分が必要としていることを話しました。それは容易なことではありませんでした。というのは、私がそう口にするときは、自分が何を必要としているのかは考えたくないからです。自分でコントロールしたくはないのです。誰かに私の痛みを何とかしてほしい、私が死にたいと言うのはそういう意味だったからです。
もし診断評価を導くようなことになったら関係はどうなるかを、事前に話し合うことも大切だと思います。もし、とても怖くなって、診断評価のことが頭の中を駆け巡り始めたとしたら、関係はどうなるでしょうか?そうなったとき、どうしたら、軌道修正できるでしょうか?私たちは誰でも診断評価をする役割に陥ったことが、一度ならずあると思います。なので、事前に、どうしたら関係性を軌道に戻すことができるかを話し合っておきます。
私は、クライシス・プログラムのスタッフ向けに5日間研修をしているのですが、クライシス対応をするピアが、診断評価に陥った状況の後で、それをどう取り扱うのかは興味深いものです。たとえば、メイン州のピアが運営するプログラムに、ある女性がやってきて、彼女は食事を全くしませんでした。誰もがその事態の周辺をうろうろして、「それは彼女の選択だ。」「でも、死んでしまうよ。」「私たちはどうしたらいいの?」「いや、でも、彼女の選択だ。」と倫理上の会話をしていて、誰も、彼女に「私は怖いです。」という人はいませんでした。彼女に「私は、あなたが何も食べないし、何も飲まないでいるのを見ていられません。こわいんです。」と話しかける人はいませんでした。そういう話をするのが関係性の会話です。もしくは「私は、怒りを感じています。」とか。その人の周りを遠巻きにして、踏んだら壊れてしまう卵の殻の上を歩くみたいにしています。実際のところ、私たちは、それほど壊れやすくはないのです。関係性のなかで感じていることをお互いに伝え、自分の荷物は自分で背負いましょう。
私たちがしようとしているピアの関係性においては、どちらの人も大切なのです。それがここでお話してきたすべてのことの基盤です。どちらもが大切だとしたら、困難な状況の会話でも、相互の責任についてのやり取りがなされるでしょう。