パーソナル・ストーリー 1/8

 精神病院の入り口の鍵が閉められる音を背後に聞き、私は屈してしまったのだと知ります。「あなたは病気だから、入院が必要なのです。私たちがあなたの助けになりますからね。」入院して5分もたたないうちに、私は、すでに精神病患者になっています。それまで私は自分に起きていることを、“尋常でない出来事に対する普通の反応”だと受け止めていました。でもその受け止め方は、『私は病気なのだ。向こうには科学が味方についている』と知ることで、粉々に打ち砕かれます。何かに反応することは“症状”であり、追い詰められたような感覚は“自殺念慮”となり、思い出せないことがあると、それは“解離”であると意味づけられます。

 自分をどのように理解し、他人をどのように解釈し、この世の中で私はどのように振舞うべきかを告げるメッセージに対し、私はずっと、それから逃げるようにしてきました。はじめのうち、それらのメッセージはすべて、私に恥と、自分が異物であるような感覚を植えつけるものでした。「それはあなたが悪いのよ。自分のせいでしょ。あなたは本当にダメね。」「それはそうと、どこが悪いの?あなたの問題は何なの?」

 物事が誰のせいで起きたのかを決められるのは、自分以外の誰かだと思うようになりました。そして、なぜか、それはいつも私のせいなのです。また、私が受けた痛みに対して、力を持つ人が「それはそんなに痛いはずはない」というように、私が痛みをどう感じるべきかを決めるのだと思うようになりました。これらの外から送られてくるメッセージが積み重なって、それが真実となり、私と外界を隔てる皮膚となります。そして、私は、自分は異物だと思うようになります。

 私は、自分がしたことへの反応として、恥を感じるのではなく、私の存在自体を非難するものとして、恥を感じます。恥ずかしいと感じるというより、私の存在自体が恥に満ちていると感じるのです。私の身体は悪であり、私の存在が悪なのです。そのメッセージは、耳の中に埋め込まれ、取り除くことの出来ないメガホンから聞こえてきます。そのストーリーに文脈はありません。恥がすべてを覆っています。人はみな、どのように行動し、どう振る舞い、何を言うべきかを、いつもわかっているようです。私は、人と違っていて、異物であるかのように感じます。そして、“普通”の人はどのように振舞うのかを知るためだけに、たえず人を観察しています。

 10代になって、閉じ込めていた恥の感覚が外へとこぼれ始めます。それまでは、あまり意識することなく、なんとか切り抜けていました。ですが、思春期は、感情に動かされるときです。私は自分が空を飛べると思い、自分を信じています。そして空が飛べるかどうか試してみます。何日も眠りません。他の人の目には映らないものが、私には見え始めます。そして、身体が震え、言葉が出てこなくなり、コミュニケーションは、ますます通じにくくなってきています。私は、ある雪の日に、「ここに私は本当に存在しているのだろうか?でも、多分、存在していることになっているはずだ」と独り言を言いながら、雪の中を裸足で輪を描いて歩いています。母がそれを見つけ、怖くなり、私を怒るべきか、無視すべきかわからなくなります。しかし、ついに、信じられない行動に出て、精神科医に連絡します。その精神科医は、私は危険な状態だと母に告げます。気がつくと私は精神病院の前で車から下ろされています。母はそのまま車で走り去り、娘を精神病院に連れて行ったことを誰かに目撃されたかもしれないと心配します。私たちの家族は誰も、精神科医に会ったことすらなかったのです。人は自力で生きていくべきものだと思っています。

 それは、60年代後半から70年代の初めにかけてのことです。クレイジー(狂っている)であることが“格好いい”時代ではありません。私が住んでいたのは、アングロサクソン系白人プロテスタントが大多数を占める、ニューイングランドの小さな町です。そこでは誰もが同じような服装をして、週末にはスキーに行き、夏は別荘で過ごしています。もし何らかの問題を抱えているとしても、それを他人に話すことはないでしょう。もっとも、私の友達のお姉さんが16歳で妊娠し、子どもを産むためにフロリダに行かされたときのことが思い出されます。学校に戻ってきたとき、そのお姉さんは噂話の対象になっていて、誰も彼女に話しかける人はいませんでした。

 私は、精神病院の門をくぐり、おそるおそる中に入っていきます。セメントの壁は醜く薄い緑色をしています。私は、どうすべきかわかりません。精神科医が診察し、しばらくの間、私を観察すると言います。ナースがときおり来ては覗いていく、小さな窓のついた二人部屋をあてがわれます。私は統合失調症というものであると医者は言います。長い間、ここにいることになるだろうという感触を私は得ています。そして、医者が語る“ストーリー”を素早く学びます。私に起きていたことはすべて、その病気の一部である。こういうことは多分、繰り返し起きるだろう。でも、薬を飲んで、たまに入院することで、病気を管理することはできる。退院後は、私と同じような人が住むグループホームで暮らすことになるだろう。私と同じような人のなかには、薬の調整のために入院している相部屋の患者も含まれます。私たちの部屋のドアが閉められると、相部屋の患者は、“もしかして必要なときのために”隠してある薬を私に見せます。そして、薬を“頬に隠す”やり方を教えてくれます。

 薬のせいで舌は、はれぼったくなり、私はタバコを吸うために灰皿の上に身をかがめるようにしています。腕を灰皿まで持っていくのが、とても億劫だからです。大晦日の夜、私たち入院患者は街へ外出に連れ出されます。私たちは羊の群れで、ナースが羊飼いです。薬のせいで足が鉛のように重く、片足を手で持ち上げて、もう一方の足の前におろし、「ちゃんとしろ、足。動け。」と声に出して言います。それを聞いて、相部屋の患者が、声を出していはいけないと、私に合図を送ります。病棟では、スタッフ対患者という構図があり、それぞれが、パワーを持っています。私は、もしかして必要なときのために、“鋭利なもの”や薬を隠すことを覚えたし、スタッフは一日に何度も、「あなたは病気だから入院しているのです。ドクターの指示に従いなさい」と言います。

 ある日私は、革命的な行動をとりました。これを飲めば、ベルトをつくる作業療法に耐えられるかもしれないと、相部屋の患者にもらったLSD(幻覚剤)を飲んでみます。LSDが効きはじめる直前に、私は、脳波検査(それがなんだかわからないけど)を受けにいくようにと指示されます。“一般”病棟へ続く長い地下道を歩かされ、そこに着くと、技師たちが電極のテープを私の頭に巻きつけます。「これは現実のことだろうか?」「私は宇宙に来ていて、あの技師は宇宙人だ」と思います。検査がすべて終わったころには、LSDの効き目は切れています。精神科医に結果を聞きに行くと、彼は、「こんなおかしな現象をはじめて見た。全く脳波が出ていない」と言います。私は、LSDのことがばれたかと思い、ひどくうろたえます。医者は、ただ冗談で、そう言ったのです!

 電気療法を数回施され、ソラジン(精神薬)を多量に投薬されたのち、私は、良くも悪くも、両親のもとに帰されます。グループホームの案は立ち消えになっています。私は、入院経験について誰にも話さないと誓います。(家族の秘密にご加護を)

… 2 に続きます。

文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理

パーソナル・ストーリー 2/8

…1 からの続きです

 家に戻ってからは、音楽バンド活動に没頭します。私はミュージシャンです。生きている中で、音楽が唯一、自分をありのままに、確かなものに感じさせてくれるものです。精神病院に入院していたことをバンド仲間の誰にも話すつもりはありません。けれども、心の中では、私は自分がクレイジーだと知っています。私は自分の激しさをすべて音楽に投入し、奇妙な経験と感情を、演奏に注ぎ込もうとします。もう二度と入院したくありません。他のギター演奏者が、私の感情の激しさを、なんとなく理解しているようです。私たちは、音楽を通して語り合います。本当の『対話』の力が見え始めます。誰もが同時に心から語り、全く新しいものを作り出します。たとえそれが幻のようなものであっても。そこには、特別なつながりが生まれています。あたかも、私たちの本来の言語は音楽であり、音楽を通して、私たちはお互いの意味することを理解し合えているかのようです。

 音楽に没頭することで、私は感情の面には対処しています。ですが、自分の経験を理解しようとし、私はまだ、自分の考えに苦しめられています。私の思考が変わらないのです。大学に入り、自分の感情や経験が真に意味することを理解しようと苦しんでいるのは、私だけではなかったことがわかります。私たちはみな、“現実”とは何かということに興味を持っています。物事の本質を知ろうと、私は、現象学を学びます。「真実というものは存在するのか?それともすべては、相対的で、作られたものなのだろうか?」私は、意味がどのようにして形成されるのかに関心があります。物事はどのように定義されるのか。有意義な会話はしているのですが、心の中ではまだ、自分は間違っている・クレイジーだ・変わっていると思っています。音楽だけが、私にとって信頼の置ける唯一の言語だと確信します。

 このように頭と心を行ったりきたりすることで、しばらくは、うまくいっていました。離婚をくぐりぬけ、3人の子どもを一人で育て、地元の寄宿制の学校でパートタイムの仕事をし、経済的な困窮に陥るまでは。私はその学校で、音楽を教えているのですが、音楽学校で学んだ経験は短すぎるので、自分のことを、にせものの音楽教師だと思っています。でも、10代の若者たちのエネルギーが大好きで、自分たちの激しさや考えをクレイジーだと思わないでいてほしいと願います。ある夏、生徒たちのバンドのメンバーの一人が交通事故で亡くなるという悲しい出来事がおきます。学校は、悲劇的な経験をした人のためのカウンセラーを雇って、生徒たちに“助け”を提供しようとします。私は、バンド仲間を集めて、語り合います。そして、その夏、亡くなった若い友人のために曲をつくり、新学期の始めに演奏することにします。その音楽は、私たちの悲しみの表現であるだけでなく、私たちを結ぶ絆となり、その絆を通して、私たちの痛みは転換されます。

 夏が終わり、生徒たちは卒業し、私は何か他のことをしなければならない岐路に立たされています。ソーシャルワークの学校で、音楽を通して10代の若者たちと関わる方法を学べるかもしれないと思います。音楽部で私が関わった生徒たちの多くは、教師らの集まりでは、“問題児”として語られている生徒たちでした。他の教師たちは、彼らは大学に行く資質がないとみなし、彼らにカウンセリングを受けるように勧めます。私が沈黙させられたのと同じように、彼らを黙らせるのではなく、彼らの声が生み出され築きあげられるような、新たな機会を作ることが出来る、という希望が私にはあります。

 学業は大変です。頭を使うのは好きなのですが、恥のメッセージを長い間、閉じ込めていた壁が、再び、ひび割れし始めます。必死になって学校にとどまろうとし、二度と入院する羽目にはならないようにと誓います。しかし、私は、人々を怖がらせるようなことをしています。スピードをゆるめることができません。眠れず、学校を続けながら、鎖とおもりをつけて走っているような感じです。「そんふうにしなくてもいいんだよ」と言い続けてくれる人がいます。でも、私は、完全に収拾がつかなくなっています。入院以外に方法がなく、おびえています。自分を病気だとみなすようなことにはならないだろうと思います―私は学問をする人で、ミュージシャンなのだと。しかし、精神病院の入り口の鍵がかかり、私は、またそこにもどってきています。

… 3 に続きます。

文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理

パーソナル・ストーリー 3/8

…2 からの続きです

 今度は、黄色のコンクリートの壁です。病院のスタッフは、紙クリップに至るまで、私が危険なものを持っていないか、所持品検査をします。私は疲れていて、病院の人たちが正しいのかもしれない、私はクレイジーなだけなのかもしれないと思います。ある意味、診断名をきいてほっとします。私はもう、自分に責任を持つ必要はない。サポートもなく、わずかなお金で3人の子どもを育てることは過酷です。私は疲れ果てています。だから、自分に責任を持たないでもよいというのも、悪くはないのです。

 でも、そうして、病院のスタッフは私に障碍年金を受けることを提案します。子どもの養育権をあきらめたらどうかとも。病気が重いから、私には子どもの面倒をみるのは無理だと言います。彼らはわかっていると思っています。

 そのとき、怒りに小さな火がつき、「あの人たちは一体何様なの?」と思います。しかし、火花は長くは続きません。私は、病院のスタッフと争うには疲れすぎています。長い間、重いものを引きずってきていました。病院のスタッフは、自分たちにはわかっていると思っていて、そのことに全く疑いを持たず、私が自分について知っていることに何か意味があるかもしれないとは、みじんにも思いません。

 すぐに私は、病院のスタッフに言われたとおりにするようになります。それで、うまくいっているかのようです。しばらくの間、私は、元の生活に戻り、“対処”しています。そして、また、“それ”がやってきます。

 再入院です。今度は、私の怒りを呼びさますことが起きます。入院してまもなく、弁護士からの電話で、別れた夫が、子どもの養育権を要求していると告げられます。養育費を支払う義務から逃れるためです。ナースたちは、しかし、今はそのことを心配すべきではないと言います。私は入院が必要だから、ここにいるのだと。私が興奮状態でいる間、患者の一人が私のそばにいてくれ、私が話を聞ける状態のときに、彼女も、子どもをとられてしまうかもしれないと言われたのだと言います。彼女は怒っていて、私に、自分にとって何が大切かを考えるようにとチャレンジを投げかけます。私にとって大切なことは、子どもへの愛情、子どもとのつながり、子どもたちは父親と暮らせば感情的な虐待を受けることになるだろうということです。

 そのとき彼女に言われたことと、病院のスタッフに言われたことの間に、違い(不協和)があることを見出します。大きなものではありません。ほんの小さなものです。それでも、なにがしかのものです。彼女は、私のような患者であるにもかかわらず、彼女の言ったことに私は納得がいきます。病院のスタッフが言うことには、全く意味をなしていないことがあります。彼らは医者や専門家であるのに。そして、その不協和に気づいたことをきっかけに、私は物事を違ったふうに見始めるようになります。

… 4 に続きます。

文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理

パーソナル・ストーリー 4/8

…3 からの続きです

 時が過ぎます。入退院を繰り返しながら、復学したり休学したりすることを、さらに数年続けています。そうして私は、自分のしている会話のほとんどは精神病に関わることで、友達はすべて、精神病患者であることに気がつきます。私たちは自分たちが病気であると信じていて、お互いに慰めあうことしか出来ません。私は、“精神病患者”としての生きるようになっています。

 あるとき、私は、家庭内暴力を受けた人のためのプログラムで実務研修をしています。ある女性が私に会いにきます。彼女は、勇気のあるサバイバー(虐待を生き抜いてきた人)ではあるのだけれど、他のワーカーたちから、カウンセリングを受けることを勧められていました。地域の精神保健センターを紹介されます。そこに行った次の日、彼女は私に会いに来て、自分は精神病なのだといいます。自分のことをサバイバーだとみるのではなく、病気だとみています。

 何が起きているのでしょう?説明が急に変わったのはどうしてなのでしょうか?昨日私たちは、彼女に起きた出来事について話していました。問題なのは、世の中で起きている虐待なのだと、私たちのどちらもが考えていました。今日彼女は、自分のどこが病んでいるのかについて話しています。

 このことが私を悩ませます。何ヶ月か彼女と話し合っているうちに、私を悩ましていることについて、彼女に問いかける勇気が少しずつ出てきます。「前は自分に起きた出来事について話をしていたのに、今は自分のどこが病んでいるのかについて話している、それはどうしてなのだろう?」

 一緒に、この問いについて考えます。お互いに共有しているストーリーを通して、自己を振り返る小さな口火が切られます。診断名を与えられてから、私たちの人生がどうなったのかを語ります。そして、診断名を与えられてからの人生にとどまっていたいかどうかについて、私たちは、ゆっくりと、いくつか意思決定をし始めます。私たちのどちらも、診断名を与えられているという事実から、ある種の安心感(安全の感覚、もしかしたら、安堵)を得ていることを認めます。ですが、自分の経験が自分にとって、何か違ったものを意味するようになってきています。段々と、自分のどこかが“病んでいる”という考えにチャレンジしはじめ、私たちに起きた出来事が病んでいるのかもしれないと考え始めます。

 悲しい事に、しかしながら、私の世界には、このメッセージを強化してくれる場は他にはほとんどありません。私たちは、無関心な大きな地球上の、小さな二人の女性です。私たちはまだ、自分たちの確信の強さに支えられ羽ばたけるほど強くはありません。私は、入退院という発作を繰り返しています。

 思いがけないことに、洞察と理解は、予期せぬところで見つかることがあります。信じられないかもしれないですが、私が頻繁に入院していた病院の精神科ナースがそれをもたらしてくれます。感謝祭の時です。私はまた、子どもたちの養育権を失いそうだと告げられ、鍵のかかっているドアの前に行き、ここから出してくれと要求します。誰からも無視され、私はドアをたたき始めます。そのナース(すでに、彼女のことを良く知っていたのですが)は、私のところにやってきて、こう言います。「シェリー、自分で選択できるということを知っているよね。残りの一生を精神病患者でありたいか、ソーシャルワーカーでありたいのか、あなたは自分で決めることができるのよ。今から10分で決められるでしょ。」こんなふうに叱られて、私はびっくりします。選択できるということを私は知りませんでした。

 このとき、私はやり遂げます。退院し、歩み続けます。子どもたちを失うことなく。病気のレンズを通してではなく、違った見方を通して、自分に起きたことへの新しい理解を見出し続けます。幸運なことに、このメッセージを強化してくれる友達がさらに数人、現れます。

… 5 に続きます。

文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理

パーソナル・ストーリー 5/8

…4 からの続きです

 しばらくして、私は、音楽をコミュニケーションの手段として、トラウマのサバイバーと関わる仕事をします。それは治療ではなく、社会運動だと考えています。作品を録音することにします。ある日私たちは、不思議な、すばらしいことに気がつきます。それまで、どうして気がつかなかったのだろう。でも、今は、私たちのみんなが気づいています。私たちは音楽の力に気づいています。そして、音楽の力を通して、私たちは、自分たちの力に気づきます。音楽を通して、私たちには何が達成でき、何を表現できるのかを知ります。音楽で表現されていること、つまり、物事の核心に切り込む痛切な思い、意味、リズム、メロディーによって、精神病患者とみなされた自分たちとは、全く違ったものを表現していることに気づきます。その違い(不協和)は、驚くべきものです。そのとき、私は何かがわかった気がします。それは私のことなのです。これが重要なのだということをつかんでいます。私には、自分がそれをつかんだことがわかっています。

 私には選択がある、ということです。

 私には、自分を精神病患者とみなし、その役の通りに生きるという選択があります。あるいは、私の音楽が私に示しているように、自分の力を自分のものとし、それを生きるという選択もあることを知っています。自分自身についての、その二つのストーリーの間には、広大な狭間があることは避けられません。そして、私は、選択する責任から逃れられないことを知っています。そして、私には自分が何を選ぶだろうかがわかっています。

 家庭内暴力センターでの実務研修が終わってからも、私は関わりを続けます。物語(ストーリー)は再定義されうるというアイデアを生かす方法を探すことにします。私のように、自分が選択したわけではないのに、精神病のストーリーのなかに閉じ込められてきた人たちが他にもいることは間違いないと思っています。トラウマのサバイバー・バンドとの経験が示しているような方向で、対話を通して、自分たちと自分たちの経験を再定義することが出来るかどうか、試してみようと考えています。

 私は問い合わせを始めます。“ピアサポートプログラム”と呼ばれるものの開発に、州政府が関心を持っているらしいと知り、州政府の当事者部門の部長と会い、家庭内暴力センターでの女性たちとの経験について話します。私はその部長に、どのようにして虐待のストーリーが見失われてしまうのか、そして、虐待の経験があるために精神保健機関に助けを求めに来た人が、精神病の診断名と薬の包みを渡されて帰っていくことになっている、という話をします。そうして、精神科の介入がますます増えて、地域の関わりが少なくなっているのだと話します。精神科のサービスがサバイバーを患者に仕立てているという私の確信を打ち明けます。

 「この状況に閉じ込められた人たちのために、何か資源がないでしょうか?」と部長に尋ねます。驚いたことに、ピアサポートのプログラムを始めるための資金があるという答えが返ってきます。ピアサポートとは、同じような状況におかれている人の支えになりたいと思っている、精神保健サービスの利用者によって提供されるサポートだということです。AA(アルコール・アノニマス)のようなものだと。部長は、従来のサービスの代替となるプログラムを始めるために、十分な関心が寄せられるだろう言います。

 私は、「それは、すばらしい!」と言います。

 それからまもなくして、私は、このプロジェクトの責任者の仕事に就きます。私には二つの使命があります。

 1.人々が精神病院に入院しないようにすること

 2.過去に暴力を受けた経験を持つ女性が、彼女らの経験を病気とみなさないようにするための関わりを続けること

 このとき、私はドロップ・イン(いつでも立ち寄れる)センターというものを知ります。これらは、自らを精神病患者であると思うようになった、あるいは人からそう呼ばれてきた人たちが、スタッフの監督のもとに、日中の時間を過ごす場所だとわかります。そのプログラムは、ビリヤードの台とコーヒーメーカーのある部屋で行われています。ドロップ・イン・センターは、精神病を持つ人たちが、地域での意味のある交流を取り戻す方法として、革新的なプログラムだと考えられていました。けれども私には、それが病院に比べ、それほどましだとは思えません。

 私は、ドロップ・イン・センターに行き、そこのメンバーと夕食をとりながら、新しいプログラムの開発に興味があるかどうか聞いてみます。薬のためにもやがかかり、そのもやの奥にかすかに見られる、やる気のようなものにたどり着くまでに、しばらく時間がかかります。それでも、何人かが協力すると言います。

… 6 に続きます。

文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理

パーソナル・ストーリー 6/8

…5 からの続きです

 いい感じです。希望が持てる。どこかに向かえるかもしれない。これが本当の変化につながる。

 そして、協力してくれると言ったメンバーたちに、彼らは、どんなことを思い描いているかを聞きます。そして、私はまた、目が開かれる体験をします。私は、こんなふうな答えを期待しています。「一緒に取り組みたいことは、よりより住居、教育と仕事の機会をふやすこと、敬意を得ること、差別をなくすこと、子ども扱いを終わらせること。」しかし、その代わり、次のような返事が返ってきました。「海岸に連れて行って欲しい。料理を作って欲しい。」

 これをして欲しい、して欲しい、して欲しい。私はあっけにとられます。「どうして、こんなふうになってしまっているのか?」私は、私たちのストーリーに再び引き戻されます。まずは、私のストーリーを思い出します。そして、私がどのようなストーリーの中にいたのかを思い出しながら、論理と直感を働かせ、彼らが、その中に入っていると思われるストーリーを想像します。「こんなふうな依存が生じているのは、どうしたわけなのだろう?」「この依存はどこからきているのか?」「これから、私たちはどう進めばいいのか?」3人の子どもを育ててきた私としては、大の大人たちを海岸につれて行くなんて、とんでもない話です。

 私は、しばらく、自分を振り返ってよく考えてみます。そうして、私たちはこのように学ばされてきたのだと気がつきます。これは、良い精神病患者としての役割の一つです。私たちは能力がない、なので、助けを受ける側です。支援者は能力がある、なので、助けを与える側です。それが社会の暗黙の契約です。一方通行のサービス関係は、不能者という終わりのない役割に、私たちを縛り付けます。私たちは助けを与えることは決して許されません。助けを受けるのみです。

 それに気づいて初めて、私たちは、本当の自分について語り始めました。“薬のためにもやがかかり、無能で何も出来ないと思っている、肩の止まり木から、助けて助けてとわめきたてるオウム”のような今の私たちではなく、医者、病院、レッテル、診断名、薬によって作り変えられる以前の私たちについてです。夢があり、家族をもち、才能があり、何か意味のある関係、お互いにとって意味のある関係を持っている人たちです。

 新しいプロジェクトに参加しているメンバーたちに、私はロックバンドのリード・ギタリストだったことがあると話します。彼らは笑います。でも、それが、違った会話に火をつけたようです。いろんなことがわかってきます。ある人は、地学を勉強し、岩石の 成り立ちに詳しいこと。ある人は、軍隊にいて、世界中を旅したこと。ある女性は緊急治療室のナースだったこと。

 私たちは、これまで忘れるように学ばされてきた、自分の一部を取り戻し始めます。無能で何も出来ない、治癒の見込みのない精神病患者という割り当てられた役割を演じることで、社会に適応しているうちに、失い、忘れてしまっていた私たちの一部です。

… 7 に続きます。

文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理

パーソナル・ストーリー 7/8

…6 からの続きです

 私たちは、時間をかけて、新しいプログラムを組み立て始めます。ちょうど感謝祭のときです。入院せずに感謝祭を過ごすのは、私にとっては、数年ぶりのことです。そこで、みんなで料理を持ち寄る、感謝祭の夕食会をすることにします。それは、ちょっとした、しくじりでした。というのは、私たちの多くは、電子レンジでしか料理をしたことがなかったからです。私たちは、自分は“危なっかしい”ので、常に監視が必要だと信じ込まされています。しかし、やがて誰もが、みんなにいい格好をみせたいと、自分も何かを持ってくる、何かを作ると言います。それで、大きな七面鳥が一羽、私が作ったサラダ、電子レンジでできる七面鳥ローストの詰め物が13箱集まります。

 これは、私たちの誰にとっても、長い間でもっとも楽しい時間になります。症状とは関係ない話を沢山し、新たなエネルギーを見出します。昔“ソロジン(精神薬)のせいで足を引きずって”いたことと比べたら、大きな違いです。私たちは、自分で思っていたほど“病気”ではなかったことに気づき始めます。実際のところ、私たちが症状だと理解していたことの多くは、居心地の悪くなる状況への反応に過ぎなかったということに気づき始めます。

 この時点から、私たちは、かなり違った会話をし始めます。問いかけは、それほど用心深くなくなり、より大胆な、とんでもないものにさえなっています。「自分の思うような人生を生きることが出来るだろうか?」「精神病患者以外に何かをやれるだろうか?」「自分たちのサポートネットワークを始めようか?」「病院システムをそっくり取り替えようか?」

 私たちは、ピアサポートの文献のいくつかで、リカバリーという言葉を目にするようになり、興味を持ちます。そして、ワクワクし、元気づけられます。やがて、私たちのケアマネジャーやドクターに、お金を払って得る“友達”ではなく本当の友達を、私たちのために人が決めたことではなく、選択を、そして、最も大切なことに、希望がほしいのだと伝え始めます。

 しばらくして、おびえを感じたり、かなり落ち込んだときに、緊急サービスではなく、お互いを頼るようになります。友達に話を聞いてもらうほうが、自分の身の安全について質問されるより、はるかにいいのです。自信がつくにつれ、私たちは、自分たちで、精神病院にかわるクライシス代替プログラムを始めることにします。現状維持からの大きな転換です。患者がアサイラム(魂を癒す場)を運営する!

 私たちが始めたクライシス代替プログラムでは、入院になりそうだと心配なときにやってきて、お互いを診断評価するのではなく、ただ、話を聞きます。入院させられる心配がないので、死にたいという気持ちについても自由に話せるし、私たちの多くは、一度や二度は、そんなふうな気持ちになったことがあるということがわかります。

 ある青年が、私たちのクライシス代替プログラムを利用したいといって、やってきます。声が聞こえていて、怖がっています。以前に、彼は、何度も長期の入院を経験しています。仕事をなくし、かなりの量の薬を投薬されてきました。彼はすべての人、すべて物から、自分が切り離されているように感じています。彼は、自分に起きていることをわかりたいだけなのだと言います。そして、彼はやってきて、ただ、話をします。4日間、眠らずに話し、自分がくぐりぬけてきたことを説明し、それを聞いた人が、それぞれどう思うかを話し、お互いの経験を比べ、そして、彼は眠りにつきます。物忘れを引き起こす薬を飲まされる3ヶ月の代わりに、彼は、自分が生きていて意識が目覚めていると感じることのできる会話に満ちた一週間を過ごします。これから先、頼りにできる友達ができます。彼は、生態学的心理学の修士学コースのために、自分の経験について、まとめようと決心します。

… 8 に続きます。

文 – シェリー・ミード
訳 – 久野恵理

パーソナル・ストーリー 8/8

…7 からの続きです

 医療関係者は誰も、この話を信じません。私たちは間違っているに違いない。“本当に精神病的”な人とだったら、そんな結果が得られるはずがないと言われます。

 私たちは医療関係者の言うことを無視し、続けます。自分たちが一緒にやっていることの力を知っています。自分の人生において、それを目の当たりにし、経験しています。

 つぎつぎと困難に立ち向かいます。困難な経験を解決の手立てに転換します。何が役に立ち、何が役に立たないかについて、いつわりのない対話を重ねます。

 私たちは、新しいグループをはじめ、新しいやり方を試し、古いストーリーを再検証し、新しいストーリーを試してみます。トラウマの経験を持つメンバーは、話し合い療法は役に立たないと言います。そこに参加すると、行く前より帰るときのほうが気分が悪くなっている。しかも、そのためにお金を払ってまでして。問題は、ひどいストーリーを詳しく話すように強制されることだと、そのメンバーたちは考えています。“虐待の経験に対処する”治療目的という名のもとに、サバイバーが次から次に、虐待の経験を詳しく語るのです。

 それで、私たちは新しいグループを始めます。音楽が関係しています。音楽をコミュニケーションの手段として使うのです。そして、ひどい体験談を語るかわりに、音楽を通して、自分たちの声を発見し、それをお互いに重ね合わせることで、自分たちが作り出すもののエネルギーとパワーを感じます。

 従来、疎外され、声を奪われ、閉じ込められてきた人たちの文化に、これほどの変化をもたらしているのは、一体、何なのでしょうか?これは極めて単純なことだと、私は気づきます。私たちは、違ったやり方で、交流しているのです。問題や欠陥で自分たちを定義して、その定義のなかで、会話をしたり、お互いについての話しをするのではなく、自分たちの力と可能性を通してコミュニケーションをしているのです。

 新たな前提と信念をもってやり続け、私たちは、自分にとっての新しい現実をつくりだします。私たちはコミュニティを創ります。私たちは、自分たちの身におきた秘密にチャレンジします。語り、発見し、新しい行動に導く会話を通して、変化をもたらします。

 これは、宇宙にロケットを飛ばすような複雑なことではありません。ですが、私たちが思い込まされてきたことと違っていることは確かです。私たちは、古い思い込みにチャレンジすることで、新しい結果を導き出すようになってきています。これは幸運なことに、私たちの努力の過程であると同時に成果なのです。