シェリー・ミードIPS講演会 (2/3): IPSの三つの視座【文字起こし】

【以下の文章は、シェリー・ミード氏が2009年12月に東京の上智大学で行ったIPS講演の書き起こしに、若干の加筆修正をしたものです。この文章の元になった講演の動画は → こちらのページで視聴できます。】

 

ピアサポートは特別なことではありません。何かつらいことがあったときに、近所の人や友達のところに行くことがあります。そのとき、その人が自分の経験を通して、そのつらさをわかってくれたとしたら、私たちは自分の弱みを見せて、その状況や経験を話すことが出来ます。そのように、人のつらさを自分の経験を通してわかるために、困難な思いをしている人とその場に一緒に居ること、それがピアサポートです。誰でもそういう経験があるだろうと思います。

 

そうではあるのですが、インテンショナル・ピアサポートでは、あるインテンション(意図、意識していること、心がけ)があるということをお話したいと思います。先ほど、インテンショナル・ピアサポートのインテンションに関心があるという発言がありましたが、そこが大事なところなのです。私たちがしようとしていることに、ある目的というか、心がけている意図がなければ、ピアサポートは病気や困難な経験を共有することにとどまり、病気を中心にした役割や関係性にしばられてしまいがちです。

 

まずはじめに意図していることは、つながりをつくることです。心を開き、とても深遠な関わりの在り方をすることです。そのとき、今いるところから、一歩足を踏み出すことを意識しています。つながりと関係性を通して新たな可能性に開かれることです。お互いにチャレンジし、プッシュし、支えあい、認め合って、その結果、どちらもが学びの経験を得ることです。そうすることで、物事への新しい見方が生まれるでしょう。みなさんはどうかわかりませんが、私は長い間、自分は再起不能で、常に専門的な援助を必要とし、事態は好転しないと思っていました。可能性に開かれるような視点を持ち合わせていなかったからです。私をプッシュして、チャレンジしてくる人がいなかったからです。一緒に学ぶという意図を持つことで、何かを生み出す関係性を作ることが出来ます。

 

IPSの関係性と援助の関係性の違い

  • 助けではなく、学びに意識を向ける
  • 個人ではなく、関係性に焦点をあてる
  • 恐れではなく、希望を基にしている

 

IPSの関係性と援助の関係性との違いを明確にすることが大切だと考えています。そこには根本的な違いがあります。それを三つの視座の違いとしてお話したいと思います。まず、要点だけをいうと、第一に、IPSの関係性は助けに焦点をあてるのではなく、相互の学びに焦点をあてることです。助けることに焦点があたっていると、問題を中心としたストーリーに閉じ込められることになります。相互の学びに焦点をあてると、全く違った文脈が生まれます。

 

二つ目の違いは、IPSは個人ではなく関係性に目を向けることです。お互いに力を引き出すような関係性から生じるものに注目し、そのような関係性の特徴について考えます。

 

三つ目は、IPSでは恐れに導かれた対応や関係のあり方ではなく、希望に導かれた対応や関係性を実践することです。精神医療では、特にクライシス状況においては、恐れに基づいた対応、リスクを避けるための対応が中心になっているようです。これは致し方ないことだとは思います。人は恐れを感じると確かなものを求めるからです。ですが、恐れに基づいた反応をされ続けると、私たちは自分の感情すら恐れるようになります。激しい感情を持つことを怖がるようになります。それだけでも私たちを閉じ込めるのに十分な威力があります。なので、希望に導かれた関係を作りたいと考えました。リスクについて問い直し、可能性に開かれた関係です。リスクをとらないでいたら、そのことが問題となるような関係性です。

 

さらに話を進める前に、ここで確認しておきたいことがあります。助けることに焦点をあてないというとき、援助という概念を捨て去ろうというのではないということです。どちらにとっても有益であるように、助けを再定義できればと思うのです。助けることを親の仇にしているのではありません。助けと学びでは、目を向けているところが違うというだけのことです。

 

この三つの視座の違いについての理解を得るために、いくつか演習を用意しました。よかったら考えをお聞かせください。言いたいと思うことだけでかまいません。

 

助ける・助けられる関係について
(質問1)はじめの質問です。私たちの多くは援助を受けることを終身刑として言い渡された経験があります。「あなたは常に援助が必要なのです。」と言われると、どんな気持ちがするものですか?そう告げられたときのことを覚えている人はいますか?

 

今日、皆さんと一緒に考えてみたいことは、実際に双方のためになるような、新たな関わりの在り方についてです。一生、専門的な援助を受け続けなければならないという考えを人々に植えつけないようにすることです。

 

(質問2)次の質問です。自分は人の世話をする役割、助けの役割をしがちだという人はいますか?自然とそういう役割を取ってしまう、それが身についてしまっている人も多いと思います。自分が常に助ける役割であるとしたら、相手の人との関係はどうなると思いますか?

 

(会場からのコメントに対して)相手の人との関係に負担を感じて、恨みの気持ちをつのらせることは避けたいですね。そういう気持ちが出てきたことについて話をして、学びに焦点を移すことで、自由があり、新たな可能性が生まれる関係性をつくることが大事だと思います。

 

(質問3)自分にとって、とても良かった援助関係を思い出せる人はいますか?つらい経験をしているときに、誰かがサポートしてくれて、自分の足で立っていることができたというような関係です。どちらもが関係に責任を持っていたというような援助関係を経験した人はいますか?

 

(会場からのコメントに対して)ずっと助けを受ける側にいると、何かお返しをしたいと思うものです。ここで注意を呼びかけたいことは、それが極端になってしまいがちなことです。長い長い間、援助を受ける側にいた人が、誰かを助ける側にまわったとき、それがとてもうれしくて、相互の関係ではなく、一方的な助けの役割に陥ってしまうことがよくあります。

 

援助関係について

  • 援助は、そこに解決すべき問題があることを前提にしている。
  • 援助は、援助を受ける人に対して、こちらが何がしかの専門性を持っていると伝えることになり、力関係の不均衡が生じるかもしれない。

 

助けは、そこに解決すべき問題があることを前提にしています。こんな経験がありました。当事者が運営するクライシス民間対応・代替プログラムをしていたときのことです。そのプログラムは現在も存続しています。そこでは当事者のスタッフが、そこを利用する人のサポートをするのですが、困難を経験している人がそれを乗り越えるのをサポートしたスタッフは、自分がとても良い働きをしたと感じます。誰かの助けになったということで、いい気持ちがします。ですがその後、交代したスタッフは、相談を受ける問題がないと、自分は何も仕事をしていないような気がします。誰かの助けになることが仕事上の役割になっていると、何も問題がないとき、問題を探し始める傾向があります。

 

IPSでいう学びとは?

  • 学びは技術の習得のような類の学習とは異なる。
  • 相互の学びは、すでにある知識の交換だけを意味しているのではない。
  • IPSは、“ひらめき”あるいは学びの瞬間を作り出すことに関心がある。

– お互いにとって、より深い理解と視野の広がりをもたらし、それぞれがより複雑になり、自分についての振り返りが深まること。

ここで学びが意味することについて、明らかにしておきたいことがあります。一緒に学ぶ、相互的な成長と学びを生み出すことは、何かの技術を身につけるというような類の学びをさすのではありません。何か共通したものを持つ人と、密度の濃い、興味深い会話をしているときに起こる、すばらしい感覚が学びです。何か新しい考えを思いつく、アイデアが生まれる、ひらめきを得るというようなことです。ひらめきが生まれた瞬間には、何かが生じているのだと思います。そこに何かがあるはずです。ひらめきの頻度と、そこで生み出されたものを測ることができたら面白いでしょう。

 

学びの関係、つまり、ひらめきの瞬間を生み出すような関係性について考えてみましょう。私の話を紹介します。それから、みなさんのストーリーをお聞きしたいと思います。

 

以前、私は入退院を繰り返していた時期がありました。そうした入院中に子どもたちの養育権を失うことがありました。それは、とても辛いことで、私をもっともおびえさせた出来事の一つでした。私は同じ病院に何度か入院していて、スタッフや病院にいる人たちと顔なじみになっていました。そのとき、感謝祭のときだったのですが、子どもたちの養育権を奪われたと聞かされました。それでとても動揺し、ドアをたたき、病院から出ようとしました。そこに、親しくしていた看護師がやってきて、私の首根っこをつかんで、「シェリー、どうするつもりなの?あなたは慢性精神病患者になるの?それとも、ソーシャルワーカーになるの?」と言いました。その時私はソーシャルワークの学校に通っていたのです。このときまで私は、自分に選択があるとは知りませんでした。それが私にとって学びが生まれた瞬間でした。彼女はリスクをとったのです。私を信じていて、可能性が見えていたから、リスクをとったのです。彼女が私に、それまで存在していなかった新しい世界、新しいストーリーを開いてくれました。

 

(質問4)これまでに、みなさんが経験した学びの関係はどのようなものだったのか、思いだしてみてください。成長している感覚、わくわくする感じ、新しい人生や可能性が開かれる感覚、お互いに活力が感じられるような、そういう関係です。少し考えてみて、よかったら紙に書いてください。あとでそれをお聞かせいただければと思います。

 

(参加者からのコメントに応えて)学びの関係ができるのは、多くを共有している人に限られたことではありません。そのとき、そこに居てくれる人との間で、学びの関係をつくることができます。

 

個人にではなく関係性に焦点をあてること

個人に焦点をあてると

  • 相手の変化のみを求める
  • 何が望ましい結果なのかが、あらかじめ定められている
  • 自分の学びについては見落としている
  • 関係性の力動は視野に入らない

関係性に焦点 をあてると

  • どちらもが相互の学びに貢献する
  • 偽りのないオープンなコミュニケーションの仕方を学ぶ
  • IPSの関係性が他の関係に波及する

IPSと援助関係における視座の違いの二つ目は、IPSでは、個人にではなく、関係性に焦点をあてていることです。これにはいろいろな意味が含まれています。個人に焦点があたっている場合、どちらか一方だけが、変わることを求められ、片方の成長のみを期待するという間違いをしがちです。そして成長を促す関係性の力動に意識を向けることを忘れています。個人を変えようとするのではなく、関係性に焦点をあてることで、個人の変化も起こるものでしょう。

 

また、個人に焦点があたっていると、あらかじめ定められた結果があって、それを得るための助けを提供するということになりがちです。援助をする側が、自分たちが助けになっていることを確認できるように、求めている結果をあらかじめ定めておきます。関係性に焦点を移すと、ピアや同僚と会話を始めるとき、その会話から何が生まれるのか、予測することはできません。けれど希望があります。その希望から可能性が生まれます。

 

個人ではなく関係性に焦点が当たっていると、関係におけるパワーの均衡について考えはじめます。先ほど、助ける役割に陥っていると負担に感じるという発言がありましたが、それが大事な気づきだと思います。お互いの間で何が起きているのかに注意を向けていると、お互いがその関係に何をもたらしているのかを意識しはじめ、どちらもが関係にエネルギーを注ぎこむ必要性が見てきます。パワーの均衡に意識を向けます。そして、関係に行き詰まりを感じたとしたら、何か手を打つでしょう。他人を変えようとするのではなく、関係性について問うのです。

 

関係性に意識を向け、どのような関係性であると、うまくいくのかに目を向けると、雪だるま式に、一つのうまくいった関係、つまり相互的な関係が、別の関係に影響を与えます。自信がもて、相互的な関係はどういうもので、どうすると相互的な関係になるのかについて、つかめてくるからです。相互の学びを生み出す関係性が、他の人間関係にどのような影響を及ぼすかを測るような研究があれば面白いと思います。

 

恐れではなく、希望を基にしている

恐れ 予測ができないこと=コントロールを失う恐れ

  • いつもどおりであること、予測ができることが保障されるように努める
  • コントロール、支配、さらなる力(パワー)を必要とする

希望 予測ができないこと=可能性

  • 新たな可能性に心を開いている
  • 居心地の悪さと共にいるつもりがある
  • 相互の関係の過程に信頼をおく

IPSの視座の三つ目の特徴は、恐れではなく、希望に導かれた関係性であることです。恐れを基盤にした関係はリスクと責任問題を取り扱うことに終始しがちです。精神医療サービスの多くは恐れを基に動いています。人々を守ること、社会を守ることです。予測可能な結果を使って、何が良い実践であるか定義します。誰かがコントロールを失っていると感じると、私たちは恐れを抱き、状況をコントロールしようとする傾向があります。

 

希望を基盤にした関係性であるには、あらかじめ決められた結果を求めるのではなく、予測のできなさを受け入れることが求められます。そして、ある程度の居心地の悪さと一緒に居ることです。恐れを感じたとき、コントロールしたいと思うのは、自分が居心地悪く感じるからでしょう。居心地の悪さを我慢できること、自分の不安と一緒に居られること、コントロールしようとするのではなく、ただ、一緒に居ることが、希望を基盤にした関係性では必要とされます。

 

次は、これらの考え方の実践についてお話します。実際にこれらをどうやって、教え、学ぶかということです。